誕生日が何でもない一年のうちの一日になったのは、いつの頃からだろう。夫と息子を送り出した後の静かな朝のリビングで、ぬるいコーヒーを飲みながらそっけない卓上カレンダーに目をやる。
そこには夫がこの日は出張だからと乱暴につけた赤いマルと、子どもの遠足の予定の時間と集合場所が書きつけられている。わたしの誕生日の16日の四角いマスは、がらんどうな白が眩しい。
数日前に出かけた北風の吹く公園で、「おかあさんは何さいなの」と寒さで頬を赤くした息子が聞いた。わたしに興味があるわけではなく、最近覚えたばかりの数字を口に出すのが好きなのだ。
ええと、何歳だっけ、と息子の鼻水を拭いてあげながら、若いまま止まった数字がつい口をついて出そうになってぎょっとする。若い女でなくなったわたしに年齢を尋ねる人がいなくなったので、自分の数字をつい忘れそうになるのだ。それは年を重ねる女性への配慮であるとずっと昔に聞いていたが、想像したより早くそれはわたしの元へやって来た。
今いくつなの。
どこで働いているの。
休みの日は何してるの。
どんな人が好きなの。
たぶん少し前までそこらじゅうに散らばっていた会話の糸口は、全部わたしにダイレクトに繋がるものばかりだった。
今は23歳だよ。今はアパレルの事務をやってるよ。そうそう、あの角にあるガラス張りの。もしかしたらお店で会ったことがあったかもね、休みの日は疲れてぼーっとしてると過ぎちゃう。恋人はいないよ、でも、もう恋愛はいいかなぁ…そんな話を女の子とも男の子とも、お互いそこまで興味もなかったのに繰り返し昼も夜も話した。
それはある時はタワレコに併設された渋谷のスターバックスで。蔦がぐるぐるした梅田の喫茶店で。深夜2時半を過ぎた新木場のクラブで。その前はたぶんもっと子供らしい話を、木の匂いと汗のにおいが混じる教室で、今はもうどうしているかも知らない人たちと話した。
あれから十数回の誕生日が過ぎ大人になり、そのうちの一人の男と結婚し、あの頃よりずっと自分のことを話さなくなった。
気が付けば子供や夫や、日々の家庭の話が増えていく。
自分だけの生活から時間が経ったことを、バスタブに浸っている自分の緩くなった裸を眺めていると実感する。
毎年の2月16日のたびに容赦なく年の数字は増えていき、わたしは世間的に大人になる。実体のわたしより大人になりすぎているとさえ思う。
お誕生日特有の、世界の主役になれるような興奮はこどものころに終わってしまった。恋人がいなくてひとりで過ごした20代の誕生日のいくつかは惨めな気持ちになった。結婚してからはケーキひとつでささやかに迎えた。子供が生まれてからは家庭の忙しさにかき消された。
大人になったわたしは、口先ではもう祝うような年でもないと笑いながらどこかで、おめでとうと抱きしめたり抱きしめられたりする誕生日を心の奥でやっぱり小さく期待している。恥ずかしいけれど、そんな気がする。
かつてのわたしに休みの日は何してるの、どんな人が好きなのと聞いてくれた、趣味じゃない時計を贈ってくれた夫はもう別の人みたいなのに。
わたしは、わたしたちは、誕生日より大事な仕事の予定や息子の遠足があるのだ。それに、こんなことで機嫌を損ねるにはもう一緒に居すぎてしまった。一緒に過ごす時間が長くなり、特別なものが特別でなくなってしまうのはきっとよくある話で、わたしたちだけではない。
傷が付いた結婚指輪はいつの間にか鈍色になって、でもその分わたしの皺が増えた指にとてもよく馴染む。
冷めたコーヒーを飲み干してカップを流しに置き、リビングを占領している息子のおもちゃを片づけようと屈んだ時、ふいに鼻がつんとした気がした。
お絵かきをしたまま床に散らばっている色えんぴつの中からピンクを選んで、そっとカレンダーの16日に〇をつけた。思ったよりずっと薄い色だった。そのあと少し悩んで、何ページかあとに来る夫の生まれた日に濃く、力強い〇をつける。
生活の忙しさの波が勢いよく飛沫をあげてやってきて、いつの間にか埋もれてしまう〇を二人で掘り返していくことにまだ少しだけ拘っていたい。
もうすぐだね、誕生日おめでとう、と自分で自分に思わず心で呟きそうになるけれど、やっぱり今夜夫が帰ったら「ねぇ見て」と、ピンクをさしてみようと思う。
女の子だったわたしが、おばさんになりおばあさんになり死ぬまであと何回来るか分からない一年のうちの一日を、もう少しだけ甘やかに。また大人になってしまう日が、今年もそこまでやってきてしまった。